レバノン→シリア〜シリア再入国。マルチビザとシングルビザの違い
バスで国境へ向かった。イミグレーションでは、マルチのビザを持っていた私はすんなり入国出来たが、二人はシングルビザだったので、そうはいかなかった。「もしかしたら、ここでお別れかも」
待っていたらなんとか二人ともシリアでの2日間の滞在を許された。どうなっていたのか分からなかったが、とにかく再入国できて良かった。待ち構えていたセルビスに乗り、ホムスへ移動。ここからパルミラ遺跡に行くのだ。
私たちは地図にも載っていない中途半端な道路で降ろされた。シリアはレバノンより日差しが強く、暑かった。親切なのか、客引きなのか分からないオッサン達が寄ってきた。 「セルビス、セルビス!」オッサンがセルビスを止めてくれ、乗り込んだ。当然まず値段・行き先の確認。大体の相場は情報ノートで把握してあった。そしてセルビスは走り出した。
だが、私たちはすぐにこのセルビスから降りた。ぼろうとしたからだ。まず私がキレた。「お前、最初5SPってゆうたやろ!!!!!」日本語で怒鳴った。オッサンはアラビア語で言い訳みたいな事を言った。
「嘘つくな、ボケ!」「こいつダメ、降りよう!」降りるときに罵声を浴びせ、ドアにケリを入れても怒りは静まらなかった。
よく中澤君と「暑いからイライラしてよけいキレてまうね」と言っていたのを思い出す。エジプトからぼったくり+暑さでキレた回数は数え切れない。
まともなセルビスで、ホムスのバスターミナルに到着。すかさず皆が声をかける。「パルミラ?」いつものようにすぐにバスは見つかった。
事前にチケットを購入するシステムだった。値段を聞くと、相場より結構高かった。さっきもボラれかけたので、私たちはすぐには信用できなかった。
「どうする?」バスは私たちの乗るのを待っている。乗客に値段を聞いてみた。紙に値段を書いてもらうと、言い値通りだった。「やっぱこの値段らしいよ」
すると中澤君が「Sさん、運転手に聞こえてたら、お客さんに聞いた意味ないよ(苦笑)」
結局、そのバスしかパルミラ行きが無かったので、その値段で乗るしかなかった。
バスは砂漠の荒野を走った。途中インターで休憩もあった。砂漠には、軍の施設があり、大砲とかレーダーみたいな仰々しいものも見られた。
パルミラ〜一人旅、再び。43℃の灼熱砂漠で遺跡探索
目当てのサン・ホテル到着。オーナーは英語が上手だった。ファン・シャワートイレ付3人ドミにチェックインした。別料金で夕食を頼んだ。
ジャガイモの冷たいスープと、キュウリとトマトのサラダ、ライスとトマト味の野菜の煮物、食後にシャーイが出てきた。美味かった。私達は全部平らげた。
部屋はキレイで快適だった。
明日、花さんと中澤くんはビザの関係でシリアを出国してトルコに行く。そして一人旅が再び始まるのだ。
2004/7/8
起きると2人はいなかった。早朝遺跡観光に行ったのだ。しばらくすると戻ってきた。中まで入ってはいないが、外側から十分に観光できたようだ。
「イスタンブールで、会えるかもしれないね」
2人を見送り、涼しいうちに私も遺跡に行った。誰も歩いていなかった。最初にベル神殿見学。ここでも国際学生証が威力を発揮した。他に見学者はシリア人家族連れだけ。神殿内は巨大な石が無造作に置いてあり、犬がいた。そして遺跡群へ。柱が並ぶ道を歩き、劇場、浴場跡、神殿などを見学。まだそれほど暑くは無い。遠くに砂漠の山上に佇む城が見えるのが素晴らしい。荒地の丘を昇り降りし、墓がある場所まで歩いた。墓は鍵がかかっていたが、旨いこと外国人観光客の団体がバスで来ていたので、まぎれこんで中に入ることができた。他にいるのは土産物屋2人。彼らが行ってしまうと、物売り夫婦も帰った。さすがにこの時間になると日差しが強烈になってきた。墓の影で休憩。茶色い石を積み上げた、墓というより古墳っぽかった。別の場所を歩いて戻った。世界遺産のパルミラ遺跡なのでもっと観光客が多いのかと思ったが、このときここにいたのは私だけだった。
遺跡を隅々まで真剣に見ていると、声をかけられた。
いきなり現れたのは、ラクダ乗りだった。「どっから来たんだい?」
ウザいヤツが来やがった。独りで遺跡に浸っていたのに、こいつもペトラみたいにしつこいのだろう。無視すると後を付いてくる。「シッシッ!」手で追い払ってみた。暑いので怒鳴るのがしんどかった。
無視を続けると、ラクダ乗りは去ってくれた。
街に戻る途中に面白そうな建物を見つけた。中に入るとプールだった。白人が数人泳いでいる。小さいプールで水は濁っていたが、この暑さの中、とても気持ち良さそうに見えた。値段を聞くと確か100SPだったと思う。中庭にイチジクが生っていたので採ったがまだ青かったので食えなかった。後から来るよ、とスタッフに言ったが、宿に戻ると暑くて外に出る気になれなかった。そのときの気温は43℃、エジプトより暑く感じた。
パルミラ〜ジャパンのSEX産業を語る
リビングでシャーイを飲みながらオーナーと話した。
「さっきラクダ乗りがしつこくて腹立ったわ〜」
「ラクダ乗りや馬乗りは悪いヤツらだ。ヤツらは危険だ」
彼は”日本の性風俗産業”について知りたがった。きっかけは、以前ここに宿泊した女性が"マッサージ店"で働いて高額な給料を稼いでいた話から始まった。
「日本では簡単にSEXできるんだろう?」
「そう、お金で買える。そういう場所がたくさんあるからね」
「いくらぐらい?」
「うーん…若い女の子は100$以上、それ以下でもできる。10$か20$でも買える。ただしオバハンやけど(笑)」
彼は驚いたようだった。スカーフで髪を覆っている女性が意外に少ない国だが、やはりイスラム国家である。このような宗教熱心な国民に、私は「日本のSEX産業のこと」をよく聞かれるのだ。
他にも興味深い話〜旅行者の良くない噂話や男娼まがいのラクダ乗りの話をした。ヨーロッパからマダムが若者を買春に来るのだと。ヨーロッパからヨルダンは近い。彼らの多くは性病らしい…
部屋に戻ると新しい同室者がいた。女子大生と会社員の韓国人カップルだった。3人で宿の夕食を食べた。
ホムス・バスターミナル〜玉子サンドVSバクシーシ攻撃
2004/7/9
朝6時。2人はまだ寝ていた。昨夜皆で話して楽しかったので、黙って出て行く気にはなれず、「良い旅を!S」とメモを残した。ローマのドミで同室だった親切な中国人青年がそうしてくれた事を思い出した。
これからホムスに戻りバスを乗り換えてクラック・デ・シュバリエを見学し、今日中にハマに行く。ホムスに着くと、バスターミナルでは無く変な道路で降ろされた。警察がいたのでバスターミナルの場所を聞いた。それを見ていた親切な人がセルビスを止めてくれ、挙句の果てに運賃までくれようとした。小銭持っているから大丈夫ですよ、と言っても聞かなかった。御礼を言い、ありがたくお金を頂いた。
バスターミナルでは、おじさんがどこに行きたいのか?と尋ねてきた。おじさんが呼んだ子供に案内され、クラック行きセルビス乗り場に行った。チケット制で、運賃は情報ノート記載の運賃より安かった。 売店で玉子サンドを買い、 セルビスに乗ると窓の向こうからさっきの子供が手を出した。久しぶりのバクシーシ攻撃だ。 分かっていたがわざと玉子サンドを差し出してみた。 子供は「違う、違う」と手を横に振った。しばらく玉子サンドとバクシーシ攻撃の攻防が続いた。子供は私のリュックをポンポン叩いた。「金だよ!」他の乗客は私たちを見て笑っている。 本気で玉子サンドをあげようと思ったが、なぜか金を渡す気にはなれなかった。子供は私を持っていた棒で突くフリをし、苦笑してどこかに行った。
クラック・デ・シュバリエ〜ヒッチハイクした花屋の甘いハッシシ誘惑?
セルビスは街を抜け、大通りを走った。丘を登ると、頂上に巨大なクラック・デ・シュバリエが見えてきた。くねくね曲がって進むにつれ、城がだんだん近づく。巨大すぎて近くでは写真に入りきれなかったので、遠くで撮影しなかったのは惜しかった。乗客は私独りになった。セルビスは城の入り口まで行ってくれた。
中はがらんどうで涼しかった。中庭で合唱イベントが行われていた。教会の窓はポルトガルを思い出させた。台所と教会の他はただの石造りの部屋なので、何に使用されていたのかは不明だった。
見学を終え外に出てセルビスを探していると、コーラ売りの少年が、セルビスが来たら教えてあげると言ってくれた。 右:内部の教会。ポルトガルっぽい
来るのはタクシーばかりで、セルビスはなかなか来なかった。城の下でセルビスを探そうと思い、下山しようとすると、1台の車に呼び止められた。「乗っていけよ!」
私が断ると、土産屋の人達が乗れ乗れと言った。セルビスかと思って乗り込むと、後部座席に花がたくさん積んであった。運転手1人、助手席に1人。2人の若者だった。
「これセルビスですね?」
セルビスでは無かった。助手席の人は花屋で、運転手は彼の店の従業員。これからホムスに花を届けに行くところだった。差し出した名刺には英語も書いてあり、本当に花屋だった。英語も普通に通じた。土産屋の人達からホムスに行く事を聞いて呼び止めたのだと言う。さすがに一人でヒッチは怖かったが、ちゃんとした商売人らしいので乗せてってもらう事にした。当然気は抜けないし、リュックの前ポケットに忍ばせてある唯一の武器・ソムリエナイフの存在を確認した。
来た時と同じ道を戻っているので、少し安心した。花屋はマルボロをくれた。
「日本から来たのかい?」
彼の家族は城付近でホテルを経営している、と言った。 「眺めが最高なんだ、クラック・デ・シュバリエはいい所さ、ウチに泊まればいいのに」 「日本人が泊まったことあるよ」 「ハッシシ好きかい?」と、ハッシシを勧められたが断った。彼らはちゃんとホムスのバスターミナル付近まで送ってくれた。
ハマ〜水車の街でスラングを広めた?
ハマの街外れに到着した。自分がどこにいるかも分からなかったが、とりあえず中心街の方向に歩き出した。途中ケーキ屋で休憩し、道を教えてもらった。
目当てのリアド・ホテルはすぐに分かった。学割でシャワートイレ付シングルに決めた。部屋はキレイだった。
早速観光に出かけた。まず川沿いの4つの水車に行った。川べりで野焼きしていて炎が歩道まではみ出している。歩いていると子供の団体に囲まれた。
ここはダマスカスとは違った。外国人が一人でいるのは、かなり目立った。子供が背中を突いてきたので振り向いて睨むと、犯人は怯えて他の子を指差した。
嘘をついたので大人に叱ってもらおうと捕まえようとしたが逃げられたので、子供の団体とギャーギャー騒いで一緒に追いかけた。「あのガキを捕まえろ!」当然捕まえることは出来なかった。疲れたし、4つの水車は草に隠れて見つけられなかったので、戻ることにした。
街の真ん中にも大きな水車があった。庭園を歩き、モスクと3つの水車(右画像)に行った。
さっきの子供の事で大人げ無くイライラしていた。若者グループにからかわれたので罵倒したりしながら、モスク前の3つの水車(上画像)に到着した。大勢の子供が水遊びしていて、橋からダイブしていた。水車はとても大きかった。背後のモスクの屋根の形が変わっていて面白い。
橋の袂に小さい子供を連れた中年のオッサンがいた。その後ろで写真を撮ったり水車を眺めていた。
そして私はオッサンのケツを蹴った。原因は、私に対して不快な言動をしたからであった。それも子連れで。完全に日本人をバカにしていたのだ。ストレスが爆発した!
足を蹴り、オッサンが転んでもケリは止まらなかった。水遊びをしている若者達が異常事態に気づきガヤガヤこちらにやってきた。「何だ何だ!」「見ろよ、ガイジンがケンカしてるぞー!」
大勢のギャラリーに囲まれ、気も治まったので攻撃を止めた。オッサンは立ち上がって私に拳を振り上げた。黙って下から睨み返した。公衆の面前で、このようなチンケなオッサンに私を殴る度胸があるわけが無いのは分かっていた。オッサンは拳を下ろし、道に止めてあるバイクに向かった。私は中指を立て、叫んでみた。
「あのオッサン、ファック野郎だぜー!!!」
周りの兄ちゃん達もオッサンを取り囲み一緒に中指を立てて叫ぶ。「ファック!ファック!×××」その場で「ファック」というスラングを知っていた者は皆無だろう。しかしこの言葉が、私の怒りが、人を罵倒する汚い言葉だということは皆に伝わったはずだ。オッサンが見えなくなるまでファックの合唱は続いた。怒りが笑いになった。私は大声で皆と笑った。
「どうしたんだい?」先ほど私をからかった若者達だった。私は事の成り行きを説明した。リーダー格の若者だけ英語が話せた。「バイクのナンバーを覚えてる?警察に言ったらあいつは捕まって牢獄行きだよ」「何かあったらすぐ人を呼ぶべきだよ」こういうときに”自分は外国人”やし親切にされると実感する。
アレッポ〜信仰心とは
2004/7/10
アレッポ着。普通の都会である。スプリング・フラワー・ホテルで日本人女子と知り合ったので、割引券を使ってツインをシェアした。彼女は可愛い女性で、東京で働いていて仕事を辞めて田舎に帰る前に4ヶ月の予定で旅をしていた。日本人4人で旅をし、トルコ、エジプトに行ってまたトルコに戻り、皆が帰って日程が余ったのでここまで来たのだと言う。
2人で情報ノートに載っていた有名ケーキ屋を探したり、街を歩き、ケバブ定食を食べた。夜、宿の屋上のリビングでビールを飲んでいると年配のおじさんスタッフに話し掛けられた。話の内容は忘れたが、おじさんの言い方が面白かったので、少し酔っていた私は冗談のつもりで言った。「酔ってるんですか?」
彼女と若いスタッフは爆笑した。しかし、おじさんだけは笑わなかった。
「キミに信仰心はあるのかね?」「日本人はブッディストだろう?仏教について語れるかね?」怒ってはいなかったが、真剣に私に質問した。
「酔ってるんですか?」は、例え冗談でも、ムスリムには決して言ってはいけない言葉だった。 「仏教について、キミは何を知っているのかね?」
私は何も知っていなかった。答えることはできなかった。おじさんに先ほどの失礼を詫びた。言葉に注意すべきだと反省した。本当はリビングでは宿で購入したドリンクのみ飲食可能だったが、おじさんは私達の飲食物持ち込みを許可してくれた。
アレッポ〜スークでガイドと知り合う
2004/7/11
時計台付近にはアレッポ石鹸屋が並んでいた。情報ノートでも評判の良い、日本人旅行者ご用達の店で私達は石鹸を購入した。旅に出るまでアレッポ石鹸の存在など知らなかった。郵便局でいらない荷物と一緒に日本に発送した。窓口にシリアの大学に留学している日本人女性がいたので発送方法を教えてもらった。荷物を入れる箱を玄関前で作成してもらうのだが、待っていると杖をついた片足の無い老人がやって来た。周りの人々が手伝って老婆は階段を登った。彼女はイラクから来たのだった。
そして私達はスークに行った。ダマスカスのショッピングアーケードのようなスークとは違い、昔ながらの小さい店が軒を連ねて、活気がある。皆陽気に「Welcome!Japan!」と声を掛けてくる。ここで私達は一人の自称ガイドと知り合った。白いシャツにグレーのスラックス。スークでは少し目立つ服装だ。
彼が提携している土産物屋に連れて行かれるのは分かっていたが、地元民で無い限り、迷路の様な広いスークを散策するのは困難だ。ガイドは無料と言ったので、とりあえず案内してもらうことにした。
小さなモスクやいろんな商店を通り、ビルの2階に上がった。そこは染物工場だった。壺の中にタールや染め粉が入っていて、たくさんのキレイな布が干してあった。工場の人が布に模様をつける過程を説明してくれた。そして事務所でシャーイを頂き、本題に入った。
色んな模様の布が広げられ、2人とも熱心に説明する。「うーん。これは柄がいいけど色がイマイチやなあ」「それじゃこちらはどうですか?キレイでしょ?」「ディスカウントしてください!」「ここは工場だから、お店より随分安いんですよ!更にお二人ともスチューデント価格にしますぜ!Welcome!」
無理に購入する気は無かったのだが、たくさんの布の中で気に入った物が見つかった。私がこの布を気に入ったと分かると、工場長は英文パンフを見せた。パリのデザイナーのデザインとの事だった。布はしっかりしていて、模様もカッコイイし、他の布より高級感があった。縦約150センチ、横300センチくらい。欧州で買うと100€はしそうな気がした。値切って20$だった。
その後キャラバンサライやカーン・アル・ワジルを見学。そして彼女がパシュミナを探しているので土産屋につきあう。アラブ色漂う店内に並べられた、これまたアラビックなアクセサリー、衣類、民芸品、雑貨類の数々。日本で身に着けるには私のセンスでは無理だ。ジュースをご馳走になったが、彼女の気に入るものが無かったので店を出た。
「もっとシンプルなパシュミナは無いの?」
何軒か店を回り、最後に行った店に彼女の欲しいシンプルなカシミヤのパシュミナがたくさんあった。
シャーイが出てきて一服していると、店主の若者が音楽をかけた。「僕が今一番気に入ってる曲。知ってる?」懐かしい、t.A.T.u.のデビュー曲だった。大柄な彼は17歳だった。その落ち着き方はどうみても30歳前後にしか見えなかった。IDを見ると本当に17歳だった。「僕の英会話学校は、このスークさ!」
そしてガイドは30歳だった。「嘘やろ?」「本当だよ」口髭のせいかもしれないが、こちらは40過ぎにしか見えない。「30で、ダンヒルのベルトはしたらいかんよ(笑)」
彼女は日本の半値以下でパシュミナを購入し、最後に私達はアレッポ城見学に行った。最後になんか要求されたらいややなと思っていたが、彼はあっさり家に帰った。
彼がいなかったら、スークで絶対迷っただろう。
明日私はトルコへ、彼女はダマスカスに向かう。 |