南フランス
リヨン〜真夜中の喜劇
2004/4/23貯まったマイルで購入したルフトハンザの航空券で、ポルトガルからフランクフルトへ飛んだ。そこからリヨン行きに乗り換え、 予定ではリヨン到着は午後18時10分のはずであった。
しかしポルトガルからの便が遅れ、その便に乗れず、最終便に乗るハメになった。リヨン到着は、深夜だった。6時間以内に次の便が確保できてしまった為、大金を叩いて加入した海外旅行傷害保険は、適用外であった。
初めて訪れる都市に深夜に到着するので、不安になってきた。
宿をどうするか、悩んだ。
【空港からの最終バスに間に合った場合】
・市街地から徒歩かタクシーでYHに行く
・バス停付近の安そうなホテルに泊まる
【最終バスに間に合わなかった場合】
・空港で野宿
・空港からタクシーでYHに行く
・空港から一番近い安いホテルにタクシーで行く
150€はしそうな空港ホテルは論外であった。
なぜここまで悩んだのか?私はその時よりによって、400€と1000$の現金を持っていた。
深夜にバックパックの日本人が街中をうろついたら?タクシーにホールドアップされたら?ぼったくられたら?今まで欧州で一人でタクシーを利用したことは沢山ある。しかし、大金のことが心配で悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。
最終バスに間に合わなかったら、という最悪のことを想定した。
とりあえず高級空港ホテル以外の空港に近い宿を確保しておこう、と思った。
ふと、セゾントラベルデスクの存在を思い出し、рオて、空港近くで一番安い69€のホテルを紹介してもらった。
ホテルにрオ、深夜到着になると言うと「ルームキーは、木の窓を押したら開くから、そこに置いておきますよ」と言われた。これで一安心だった。今までカードを無くしたりとられたりしたことは無かったが、セゾントラベルデスクという存在は”カード紛失・盗難”の時に電話する所、だと思っていた。セゾンの人には、とても感謝している。
深夜、リヨン到着。やはり最終バスに間に合わなかった。私の便が最終フライトだった。乗客で旅行者は私一人で、皆地元民だ。
タクシー乗り場に行った。最前列で客待ちしていたおばさん運転手にホテルの住所を見せると、分からないらしく、無精髭の青年運転手が「俺知ってるぜ」と言った。おばさんの車に乗りたかった。おばさんだったらホールドアップなんてしないだろう…力で勝てる自信もあった。
深夜で大金を持っていたので、かなり疑り深くなっていた。いつものように、荷物はトランクに入れなかった。
運転手の後ろに乗り込むと、西欧で初めてタクシーのメーターを確認した。青年は怪訝そうな顔をした。
タクシーは、真っ暗な農道を進む。1台のトラックとすれ違っただけ。周りに民家は無い。明かりも無い。
青年「あんた、どっから来たんだ?」
「…モンゴル」
青年「モンゴル…?」
沈黙が続いた。
国道沿いに、ホテルが見えた。青年は紙に”12.9€”と書いた。
ホテルの人に教えてもらったタクシー料金は20€だった。青年は善良な働き者で、世界中のタクシー運転手の模範だった。
ホテルというより、モーテル風の造りだった。フロントを兼ねたレストランは閉まっていて、中規模のハイツみたいなホテルが2つ並んでいた。フロントと客室は別棟で、直接外から各部屋に入るのだ。どこにも人の気配は無かった。
教わった通りに”木の窓”を探した。パニックだった私の頭には、木の窓=キーBOX、だった。それはどこにも見当たらなかった。遠くから聞こえる車の音にドキドキした。
宿泊客にキーBOXのありかを聞くしかなかった。
明かりが漏れている部屋をノックして「キーBOXはどこですか?」尋ねまくった。
真夜中に、大声でわめいているワケのわからん外人がノックして、普通は出ないだろう。が、一人だけ黒人のおばさんが戸を開けてくれた。パジャマ姿のおばさんに「キーBOXはどこですか?」と聞いた。彼女は眠そうに「知らないわよ、子供たちが眠れないじゃないの、静かにしなさい!」と叱った。
落ち着け、冷静沈着な自分に戻れ!と、一服した。
そして私は、タバコを吸い終わると自分の部屋の前に行き、木の窓から部屋に入った。
ホテルの人の言ったこと、そのままだった。
”木の窓を押して開けて、そこにキーがあった”のである。
コーヒーを一口飲むと、私は声を殺して笑った。
リヨン〜歴史地区が一望できるYH
2004/4/24
朝になって外を見ると、そこはリヨン郊外の工業団地だった。草地と大きな工場があるだけ。バス停まで30分歩き、そこから市街地まではバスで30分以上かかった。
リヨンYHは見晴らしの良い高台にあり、途中の坂を登っていると、優しそうなムッシュが「YHまでもうすぐだ、がんばれ!」と声を掛けてくれた。
苦労して坂道を登った甲斐があった。YHの中庭からは、リヨン歴史地区が一望できた。大小さまざまな赤い屋根、煙突、、、パリの空しか知らなかったので、いかにもフランスらしい景色に感動した。この街で一番印象に残っているのは、この眺めである。
メトロでは改札口に係員がいて、荷物の検査をされた。しかし治安は良く、人々も親切で街歩きが楽しいところだった。
アヴィニヨン〜世界中の人の憧れプロヴァンス
2004/4/25、26
ここがプロヴァンスってとこか〜と思った。青い空、緑、咲き乱れる花々、おとぎの国のような家、明るくて親切な人々。
アヴィニヨンのYHは、川沿いのキャンプ場の中にあった。キャンピングカーが沢山泊まっている。ロビーで日本人女性に出会った。彼女から私に話しかけてきた。
「…日本の方ですか?」
「そうや〜」
彼女はイギリスにワーホリ中で、帰国前に2週間南仏旅行を楽しむのだという。日本語を話すのは、ポルトガルの空港で学生たちにバス乗り場を案内した以来だった。
「もしかして、バックパッカーの方ですか?」
「え?…そういうことになるんかな(笑)」
「…そのGパンはワザと破ったんですか?」
彼女にGパンの穴と擦り切れたスソはワザとやったのかと指摘された事は今でもよく覚えている。
「違うよ(笑)昔転んで破れた(笑)ただの履きこんだGパンや」
対岸のYHからでも法王庁がどーんと見えた。かなり大きく、立派だった。中には入らなかった。サン・ベネゼ橋、美術館を見学。アヴィニヨンは有名な観光地だが、人が多すぎず、緑の山々に囲まれた良い街であった。次の日対岸の村では祭りが行われ、民族衣装に身を包んだ美しい女性たちがダンスしたり、子供たちが馬に乗って行進していた。
アルル〜荷物を背負って日中観光、アルルの女が聞こえた
2004/4/26
YHの受付は10:00までだった。駄目もとで行くと、鍵がしまっていた。重い荷物を背負っての観光となった。自分はいきあたりばったりの旅なので、YHの受付に間に合わないことはよくあった。
アルルで有名な円形闘技場は、ローマのものよりすごいと思った。闘技場の影に座って、タバコの葉を巻いていると(フランスではタバコが高くて巻タバコは滅多に買えない)、1本のマルボロが目の前に差し出された。見上げると、笑顔のジェントルマンが「どうぞ」と…久々の高級タバコをありがたく頂いた。
ゴッホが描いた庭や、ローマ遺跡と、アルルは徒歩で十分観光できた。単純だが”アルルの女”が頭の中に鳴っていた。
スーパーでカブのマリネとクロワッサンを買って川沿いで食べた。このカブのマリネはフランス滞在中毎日食ったくらい私のお気に入りだった。本当におフランスのパンは最高!
エクス・アン・プロバンス〜セザンヌの歩いた道、セザンヌの描いた風景
2004/4/27
オルセーで始めて見たセザンヌが素晴らしかったので、どうしてもエクス・アン・プロヴァンスに行かねばならなかった。
マルセイユで乗り換えだったので、立ち寄ろうか迷ったが、駅から見たマルセイユの街は汚かったので途中下車は止めた。
列車の車窓から見える地中海は、青かった。空に近い、青。白い岩とのコントラストが美しく、白が似合う青だ。
かなり温かくなってきたので、荷物軽減のため、3年前に1000円で購入し今まで旅で大活躍してくれた上着を勿体無かったが捨てた。
インフォメーションで紹介された安ペンションにチェックインし、真っ先にセザンヌのアトリエへ向かった。道を間違え、うろついていると親切なマダムが教えてくれた。
アトリエは、木々に囲まれた木造の小さい建物だった。
明るい木漏れ日が差し込み、当時を忠実に再現してあって、セザンヌの魂が今も息づいている美しい精神世界だった。アトリエを出ると、坂を登って北のLes Lauvesに向かった。セザンヌがサント・ヴィクトワールを眺めた場所である。
あとは、セザンヌの足跡をたどる為、金色のセザンヌ鋲を追って歩いた。
毎日風景と出掛け、美しいモチーフと一緒にどこよりも快い一日を過ごす
(息子へ宛てたポール・セザンヌの手紙。1906/9/22エクスにて)
エクス・アン・プロヴァンス観光事務局パンフレットより引用
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